みなさんこんにちは!ちえこんです!
こんな事ありませんか?
・上司や経験者の意見に従った方が安全だと思い、自分の考えはいったん横に置いた。
・子どもに対してどうしたらいいかわからない時に「これが正解」と言われている関わり方を選んだ。
空気を読んだわけでも、投げやりになったわけでもない。
むしろ、ちゃんと考えた結果の選択だと思います。
それでも、
「これでよかったはずよね?」
「ん~、何かが違う。。」
そんな感覚が、あとから残ってしまう。。。
これまで、
正しいと言われていることや、周りが安心だと判断している選択を、
丁寧にやってきた人ほど、こうした違和感を抱えやすいのかもしれません。
この記事では、
正しいと思われる判断をしてきたのに、なぜか不安や違和感が残る。
その理由を、
努力不足や根性論の話ではなく、判断の基準をどこに置いてきたのかという視点から整理します。
読み終えたとき、
「私が間違っていたわけじゃなかったんだ」
そう思える安心感とともに、
これから何を基準に考えていけばいいのか、その方向が見えてくるはずです。
ちゃんと考えて選んできたのに、なぜか残る違和感

ちゃんと考えて選んできた人ほど、「なぜかしっくりこない」という違和感や不安を抱えやすいものです。
それは、判断そのものが間違っているからではありません。
多くの場合、「正しいかどうか」「安全かどうか」という基準を優先して選んできて
その結果、自分の感覚を使う場面が少なくなっているからです。
正しいと思われる判断は、失敗を減らしてくれます。
周りとの摩擦も避けられます。
けれど、
その判断が続くほど、「自分で選んだ」という手応えは残りにくくなります。
たとえば、
仕事の場面。
上司や経験者の意見に従った方が安全だと思い、自分の考えはいったん横に置いた。
あるいは、
家庭や子どものこと。
「これが正解」と言われている関わり方を選んでいる。
結果として、その場はうまく収まり、大きな問題は起きていない。
けれど、なぜか「これでいいのよね?」というスッキリしない感覚だけが残る。
どちらも、考えていない選択ではありません。むしろ、状況をよく見た上での判断です。
だからこそ、そのあとに残る違和感や不安は、
「判断が間違っていた」というサインではなく、判断の基準が自分の内側に置かれていなかったというサイン
なのかもしれません。
一度、
「自分は何を基準に選んできたのか」
そこを見直してみてもいい、という静かなサインです。
私たちは「正しいかどうか」で判断しすぎている

私たちは、自分で思っている以上に、「正しいかどうか」を判断の基準にして選んでいます。
なぜなら、正しさは迷わずに済み、安心できる基準だからです。
正解がある。
間違いがある。
そう考えたほうが、判断は早くなります。
特に、
・経験者がそう言っている
・多くの人が選んでいる
・一般的にはこちらが無難
こうした情報は、自分で一から考えなくても済む判断材料になります。
忙しい毎日の中で、正しさを基準にするのは、むしろ自然な選び方です。
さらに私たちは、
子どもの頃から「正しくやること」を大切にする環境で過ごしてきました。
テストには正解があり、先生の言う通りにやれば評価され、「間違えないこと」が良いこととされる。
その経験が、大人になってからの判断にも、少なからず影響していても不思議ではありません。
私たちは無意識のうちに、
「正しいか、間違いか」
「安全か、危険か」
どちらかに分けて考える判断をしがちです。
正しさを基準にしてきたこと自体が、悪いわけではありません。
これまでの経験や環境を考えれば、そう選んできたのは、とても自然なことです。
ただ、正しいかどうか、答えは二つに一つということだけを基準にし続けていると、
自分の感覚を使う余地が、少しずつ後回しになっていくことがあります。
正しい選択をしてきたのに、なぜ違和感が残るのか

正しいと思われる選択をしてきたのに、なんだか違和感や不安が残るのは、
行動が足りなかったからでも、続けられなかったからでもありません。
判断のたびに、自分の感覚が置き去りになっていたからです。
人は、「自分で選んだ」と感じられる経験ほど、記憶にも残り、次の判断に活かされます。
それは、自分で選んだときほど、
「なぜそれを選んだのか」
「どう感じたのか」
まで、経験として一緒に残りやすいからです。
反対に、
正しさや無難さを優先して選んだ判断は、失敗しにくい反面、主体的でも受け身でもない、中間のような感覚になりやすい。
その状態が続くと、
行動は増えているのに、自分の中に「これをやってきた」という実感が残りにくくなります。
たとえば、仕事の場面。
上司から「前回と同じ進め方でお願い」と言われる。
マニュアルもあるし、その通りにやれば問題は起きない。
本当は
「ここ、前ちょっとやりにくかったな」と思ったけれど、
「変える理由を説明するのも面倒だな」
「失敗したら嫌だな」
そう考えて、そのまま進める。
締切は守れる。注意もされない。
でも、終わったあとに残るのは「無事に終わった」という安心だけ。
次に同じ仕事が来たとき、「前はどうしたっけ?」と考えるけれど、自分の判断として思い出せるものがない。。。
子どものことでも同じです。
本やネットで見た「これが正解」と言われる関わり方を、そのまま試す。
その場は落ち着く。
でも、また同じ場面になると、
「次はどうすればいいんだっけ?」と、同じところで迷う。。。
ここで起きているのは、やっていないわけでも、間違っているわけでもありません。
正しいかどうか、無難かどうか、
そうした基準を優先して判断してきたことで、自分の感覚を使う場面が、少しずつ減っていたということです。
その選び方をしていれば、あとから
「しっくりこない」
「何か噛み合っていない」
という感覚が残るのも、自然なことかもしれません。
これは、
今までの判断が間違っていたという話ではなく、判断の中に、自分の感覚を戻していく余地がある
というサインです。
「正しい」以外の基準で考えてみる、という視点

これから必要なのは、「正しいかどうか」で判断するのをやめることではありません。
何かを選ぼうとした判断の中に、「今の目的」や「自分の感覚」をもう一度戻してみることです。
そうすることで、
二つに一つの考え方だけでは見えにくかった、そのときの目的や状況に合った選択肢が見つかります。
正しさや安全は、これまでの判断を支えてくれた大切な基準です。なくす必要はありません。
ただ、正しいかどうかだけを基準にしていると、
・今は何を大事にしたいのか
・何のためにそれを選ぶのか
といった視点が、判断の中から抜け落ちやすくなります。
判断の前に、正しさを見る前に、「今は何を目的にしているんだろう?」と一度立ち止まってみる。
それだけで、選択肢の見え方は変わってきます。
たとえば、うちの息子くんがやっている大好きなゲーム。
大人から見ると、そのゲームは、
「早くゴールする」「敵を倒す」
ことが目的のように見えます。
ですが、見ていると、「なんでそんな回り道するの?」と思うことがあります。
本人に聞くと、
「今日は探検したいから」
「この場所を作りたいから」
と、ちゃんと目的があったようで。
そのゲームをする目的を、
「アイテムを全部集める」
「とにかく遠回りして探索する」
に変えるだけで、同じゲームなのに、まったく違う選択肢が生まれていました。
何を楽しみたいかによって、正解はいくつもつくれる。
子どものゲームの楽しみ方を見ると、「何を目的にするか」で正解が変わることがあるなと、気づかされました。
現実の判断でも、同じことが起きているのかもしれません。
正しいかどうか。
安全かどうか。
周りからどう見えるか。
それらを考える前に、
「今の私は、何を目的にしているんだろう?」
と一度問い直してみる。
それだけで、これまで一つしか見えなかった選択肢が、広がることがあります。
これまでの選び方が間違っていた、という話ではありません。
ただ、判断の中に自分の目的や感覚を戻す余地がある、ということです。
まとめ

私たちは何かを選ぶとき、無意識のうちに「正しいかどうか」を基準にしたり、
二つに一つの答えを求めたりしがちです。
それはこれまでの判断を支えてくれた、とても頼りになる考え方です。
ただ、その基準だけで考え続けていると、
・他の選択肢に気づかない
・選んでいるつもりなのに前に進んでいない感覚
そんなことが生まれる可能性がでてきます。
この記事では、これまでの選び方が間違いだという話ではありません。
判断の中に、
「今の目的は何か」
「自分は何を大事にしたいのか」
という視点をもう一度戻してみる余地がある
という話をしてきました。
目的や感覚も判断材料にできたとき、
これまで見えにくかった選択肢を広げることができますよ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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